井田淳一 井田淳一

田舎の風景には憧れがあるんです。とりわけ晩秋から冬が好きで、ちょうど民家に斜めから光が差し込んでくる光景は涙が出てくるほどきれい。こんな大きな体で笑われちゃうけど。

(1987年3月1日あさひ群馬記事より)

私にとって絵は“武器”なんです。
刃が錆び付いてしまわないように、
常に磨いておかなくてはならない。

(1988年)

庭の
山茶花の花
一つだけ残って
いとおしい

(1988年12月)

時はこの家が立てられた頃とくらべると何倍もの速さで流れている。私は「時よ、あまり急ぐな」と言いたい。自然の美しい変化に感動しつつゆっくりゆっくり味わいのある人生を歩みたいものである。屋根の茅の色が少しずつ、しぶく落ちついた美しさに変化して行くように。

ふと目を上げると赤トンボが少し黄ばんで美しいカーブを描くすすきの葉に止まったところだった。

まさに秋だナ。

(1989年10月「民家を描く」より)

虫の声、鳥の声、路傍の草花、色を変え重なり合う木の葉、そしてせせらぎの音。こんなにも素直に心に浸み入るものがあるだろうか。やさしさの心は自然から学ぶことが多い。だからあまり急がず、おいしい空気を胸一杯吸い込んで、ゆっくり歩きたいものである。

(1990年8月「民家を描く」より)

私達は今、これらの茅葺き民家の多かった時代に学んだことを少しづつ忘れてしまっているようで残念だ。現在のようにますます希薄になる家族の心の結び付きも、囲炉裏を囲んで語らった頃には、燃える炎の暖かさが等しく心に広がっていくようにしっかりとあった。素朴さが教えてくれる物の心、優しさ、大切さ、自然と一体となった生活――思い出すと涙がでてくるような懐かしさだ。煙りに顔をしかめながら土間の風呂桶に体を沈めたことも、母がへっついの灰の中で焼餅にこげめをつけてくれたことも、今の子供達には味あわせることは出来ないが、その心は伝えることは出来るだろう。いや、しなければならない。

(1991年3月「民家を描く」より)

そこに立っていると、
目の前を列車が走ってゆく。
そしてその一つ一つの窓が、
一つ一つの絵であるのを、
私は見ていた。
素晴らしい旅だった。

(1998年1月、病室にて夢を見る)

私の忘れられない三枚の絵

戦後半世紀、社会も私達の意識も大きく変化した。今年の終戦記念式典をテレビで観る機会があった。当然のことながら参列者は高齢者が多く、戦争を知らない若者達は画面を一場面と無感情に一べつするだけで世代の違いを実感してしまう。現在においても世界の何ヵ国では内戦や飢餓で苦しんでいる人が居ることを思うと、今の日本は多方面で不安定であるが平和であるといえるのではないか。

さて、私が絵というものを意識し最初の記憶として残っているのは飛行機と船の絵で、終戦の年、毎日戦地の父への葉書に描いたものだった。父の他兄弟三人共皆出兵し、父の妹の、私にとっては叔母が父への便りとして文字代わりにメッセージとして絵を描かせてくれたわけである。薄暗い奥の部屋で小さな木の机に正座し、一生懸命描いた場面が思い浮かんでくる。空襲警報とB29の不気味な爆音と大きな黒い機影におののき焼夷弾で燃える山火事にふるえ、真空管のかすかな明かりにさえ風呂敷をかけ耳を近ずけて聞いたラジオ放送、それにそのラジオが人間の顔に見えて仕方がなかったなどのことが昨日の事のように鮮やかに蘇ってくる。

次にそっくり再現できるほどはっきり残っている絵は、小学校四年生の時描いた初めての水彩画である。当時は三年生まではクレヨン、四年生になってやっと使用が許された水彩絵具、確かギターペイントだったと思うが、最初の絵は同級生Mさんの学校の近くにある茅葺民家を描いたものだった。茅の色が柔らかくクレヨンと違う味で表現出来た喜びは忘れない。手前の麦畑の緑の変化に苦労しながら仕上げた絵は、水彩絵具が使えた嬉しさと加わってこれも鮮やかに憶えている。五年程前に偶然出会った当時の担任の先生もやはりその絵を手元に残して置きたかったとおっしゃって下さった。心を込めて熱心に描いた絵にはやはり上手、下手を越えた何かが秘められているのだろう。

そして、もう一枚の絵はヒョロヒョロノッポの中学生になってからの絵である。私が中学校に入学した年に新校舎に移転した記憶がある。移転後まだ十分に整理されていない時であったと思うが、一階から二階へ上る階段の途中の踊り場にガラス戸の物置が設けられていた。何かが入った大きな木箱の上に、四号大の渓流を描いた油絵が無造作に額にも入らず裸で置いてあった。当時の図画の先生の描いたものだった。本物の油絵を身近に見た最初であった。油絵の知識などは勿論何もない私がひとつだけ知っていたのは、画集のゴッホの絵からの影響か、絵具を盛り上げて描けるということだった。先生の渓流の絵をじっと見ていると、岩や木の葉が盛り上がって見えるではないか、興奮をした。その驚きは油絵を描きたいという欲求にたちまち変化をしてしまった。

それからは、そこを通る度に自分の覗くのに丁度よい高さの窓ガラスを拭いては何時も何時も眺めていたものだった。何ヶ月経った頃だろうか、確か秋だったと記憶しているが、職員室の図画の先生に呼ばれた。悪い生徒ではなかったけれど、理由が思い当たらないだけに不安な気持ちで先生の前に立った。「お前は絵が好きのようだね。絵を眺めていることが職員室で話題になっているぞ。俺も安月給取りだから全部は揃えてやれないが、これだけあれば油絵は描けるだろう」とおっしゃって、十二色の油絵具セットに筆三本、それにテレピンオイルの小ビンを下さった。「他に木のパレットとキャンバスが必要だがベニヤ板で作れるから」と画板とパレットの作り方を教えて下さった。嬉しかった。早速家に飛んで帰り、物置の壁のボロ隠しに張ってあったベニヤ板を剥がし、糸のこでパレットの形に切りヤスリ紙でみがいて私にとって立派なパレットを作り上げた。

そして描いた油絵の処女作は机の上のビールびんにネギ三本の単純な絵であったが、当時の私としてはゴッホの絵の後に興味を持って図書館の画集で感動したレンブラントの絵の意識が頭一杯に広がって、カラバジョ風の暗い背景の中にビールびんの透明感とびんに光の当たっている部分、それとネギの白さを浮かび上がらせた重厚な絵で、テレピンの匂いが忘れられない私の傑作だった。この絵も叔父にくれてしまったが、叔父の家の建替、引越の折にどこかへ消えてしまった。又々残念で仕方ない。

これら三種類の絵は忘れることの出来ない私の原点である。どれもが心が興奮するような状態の時に描いていることが解る。感動する心で描いた絵は本人ばかりでなく他人にも訴えるものがあるのでしょう。その後現在まで、さらに、沢山の感動を経験し絵も描いて来たが、小さい頃の純粋な気持で描いた作品の強さには負ける。当時の先生には本当に感謝している。心の温かな交流が今の時代以上にあったと感ずる。物を大切にする気持も、自然と親しむ気持もあった。貧しかったが心は豊かで楽しかった。それから大学を卒業するまでにも沢山の諸先輩からの応援やアドヴァイスもいただいた。人生で素晴らしい人々と沢山巡り合える事ほど幸福はない。

絵を通してこれからも多くの友人を得て楽しい時を沢山得たいと思っている。そして自分自身でも子供の頃に描いた忘れられない三枚の絵のように心に残る絵を描きたいと願っている。

(1993年12月 『絵と私 生涯学習の仲間たちと』より)